渡部直己現代文学の読み方・書かれ方』古本で購入。
1年くらいネットとリアル店舗で探し続けてようやく見つけた。
同じシリーズの『それでも作家になりたい人のための〜』や『本気で作家になりたければ〜』は結構あるのだけれど、これだけはどうしても見つからなかった。
たぶん一番売れてなかったからだろう。
とかいって、実はamazonにはちゃんと在庫があったりするのだけど、なぜみつからなかったかというと、ずっと「渡辺直己」で検索していたからであった。
まぎらわしいよなあ。
ちなみに「渡辺直己」で検索しても一応ヒットはするけれど、こちらは昔の歌人で、まったくの別人です。
で、この本の何が読みたかったというと、冒頭の村上春樹批判が読みたかった。
昔この本が出た頃、新品で買っていたのだけど、引越しの際に処分してしまっていたのでした。
しかし、ちゃんとまともな村上春樹批判をしてる人って、この渡部直己柄谷行人の「村上春樹の風景」くらいだろうか。
あと、斉藤美奈子小谷野敦とか?こちらは読んでいないのでよくわかりません。
小谷野敦のは、『ノルウェイの森』の主人公は女にもてまくっててけしからん、とかしょうもなさそうな感じだなあ。
で、渡辺の批判というのは、本当に重要なことは語らずにおき、その周辺のどうでもいいような細部に対してのみ注意を払うという黙説法が、日本の天皇制ときわめて近似している、というもの。
友人の死や、予期せぬ突発的な出来事も、「やれやれ」とやり過ごすことによって、決して自分を脅かすことはなく、ナルシズムが充足されるだけだ、と。
そうそう、これこれ。
ようやく引っかかりが解けた。
あと、柄谷行人の「村上春樹の風景」といえば、この間出た『定本柄谷行人集5』に再収録された同論考では、大幅に加筆修正されているのだけど、最後の部分は訂正しないほうがよかったんじゃないのかなあ。
p189の「…つまり、『ノルウェイの森』で、村上はたんにロマンス(love story)を書いたのである」以降の次の部分。

「これまでイロニーによって逃げ続けてきた歴史から解放された以上、もはやイロニーは必要ないし意味をなさない。

  一九六〇年、ボビー・ヴィーが「ラバー・ボール」を唄った年だ。(『1973年のピンボール』)
 
 そんなふうに「無知を装う」必要はない。もう「一九六〇年」を知る人など数少ないのだ。それどころか、村上のイロニーを本気で受け取る人たちが大半なのである。村上がかつて価値転倒によって見出した「風景」は、今グローバルに自明と化した風景なのである」

で、元の文章はこう。

「…だが、それは彼がイロニーを必要としないほどの「優位」を現実的に獲得したからである。「直子」や「一九六九年」から逃れる必要、つまりイロニーの必要はもはやない。すでに、世界は「僕」のものだから。
 しかし、それはイロニーの廃棄ではなく、それもまたイロニーである。シュレーゲルは「イロニーの頂点は真面目であることだ」といっている。現に、彼はカソリックに帰依したのである。だが、あのフロイトがいった言葉をわれわれは想起する必要がある。<戯れの反対は真面目ではない、現実だ>。この「現実」とは、いうまでもなく「歴史」を意味する」

この元の文章読んだ時は結構感動したものだけれど。まあここの部分だけ取り出して比べてもわかりにくいね。